椿姫、あれこれ。 (2007.9.21)
久しぶりに県民ホールで本場の「椿姫」を観た、聴いた。「号泣」させてくれるかと思ったが、色々あってそこまでは行かなかった。 座席というのが大事な要素だということも今回身にしみた。相変わらずのドジバナで、 インターネットで出してプリントアウトしたものはどうやらアクトホールの座席表。予想とは大いに違っていた。 オケピットから数列後ろの下手よりだったが、歌い手が上手に行ったらさっぱり聞こえない。表情は見えるが、 計算された動きは結局充分分からない。2幕から2階席に上がったが、ガラガラの座席で最も見易いところに陣取って初めて堪能できた。 声は全部上に上がってきている感じだし、全体を眺めての動きの美しさも、舞台美術の思想も全部見えた。本当は、 最後の場は至近距離でヴィオレッタをしっかり観たかったのではあったが、、、それは贅沢と言うもんだ。
今日の演奏で声楽的に光っていたのはテノールのアルフレード役だろう。楽々と声を出し、 どんな姿勢でも無理なく自然な美しい声が出ていた。そう、今日の演出は歌い手に全部普通でない姿勢を取らせたのだ。 歌いながら横向きに寝っ転がるし仰向けになるし、様々な姿勢を取らせたのは、「自然さ」を出したかったのだろう。 生活の中で当然あるべき姿で歌わせたかったのだろう。それはこの作品の最後の処理の仕方でも分かった。 過去に何度か観た生の舞台でも映像でも一度も観たことがない、ヴィオレッタの「死」だった。
地元出身のK女史の場合も、死の間際くるっと後ろ向きになって悠々と歩き続ける、まるで「死なない」ヴィオレッタだった。 その解釈は、彼女の精神は不滅だということだろう。
又別な舞台では、大きなベッドの上に身を投げ出して死ぬヴィオレッタの上に覆い被さって泣くアルフレードといった具合で、まあ、 歌舞伎に近いものを感じさせたものだ。それはそれでドラマティックで感動したが、今日のは全くナチュラルで、 一人の若くて美しく薄幸な女性の死を繊細に描いた。
いよいよ最後の時、ヴィオレッタは一瞬生命が身内に漲り、永遠の命を得たかのように驚喜する。 その勢いで大きな窓を開くと白いカーテンが風に煽られ大きく彼女を包み込む。まるでそこに天使達が舞うかのように。 歓喜ののままに振り返ってアルフレードの胸に身を投げ出し、そのまま抱かれて死んでいくという流れは、お見事! 曲調とぴったり合って素晴らしい効果を生み出していた。
この演出家が女性であることに思い至ったのはその瞬間だった。なるほど。女性の目から見た、この恋愛劇だったのだ。
終章の幕が開いた時、一瞬私は先日観たモジリアーニ展のジャンヌの絵を思い出した。夫が死んで、 程なく身ごもった身体を天空に踊らせた彼女が、その余り遠くない時期に描いたらしい「ニースにて」という一枚の絵。 テーブルを挟んで母親と夫と猫と戸外で食事をしている絵だ。猫は黒猫。夫は黒のネクタイに喪服?そして真っ黒に描かれた目。母親の髪も黒く、 背景の樹の幹にも黒を使っている。、、、今日のオペラ最後の場面は、全体をベージュの濃淡でまとめ、所々に黒を配置してあり、 それは明らかに「死」のイメージだ。色彩を極端に押さえることで、寒々しい中に清逸な趣を醸し出している。 あたかも彼女の精神人生をこの場面に凝縮させているかのようだ。高級娼婦ではあったが、誰よりも純粋で高貴な心を持った女性としての、、、。
原題は「ラ・トラビアータ」=道を踏み外した女。踏み外したのは、女の道か?人間の道か?娼婦としての道か?それとも、 恋人としての道か?、、、、いずれにせよ人間は罪深いということか、、、。
こうしてみると男って、アホに描かれてるなあ~なんちって!








